小林僕が、音楽から得たお金をどう生かしていくのかと考えた時に「利他」という言葉が浮かんできて、そうしたら伊藤亜紗さんも同じようなタイミングで「利他学」というのをやられていて。伊藤さんの利他学って、暮らしの中の知恵というか、相手のために何かをするということが、必ずしも思ったように伝わるわけではないということだったり。緊張感のようなものを持ちながらかも知れないけれど、待つというか、見守ってあげるということだったり。そんなことを僕は伊藤さんから感じていました。今年の「ap bank fes」につけた「社会と暮らしと音楽と」というサブタイトルがあるんですが、社会と暮らしの関係性みたいなことで何か思われることとかありますか?
伊藤いつも我々の仲間で話しているのは、「与える利他じゃない利他を探ろう」ということで、最近注目してるのが「漏れる」という動詞なんです。自然界って「困ってるんでしょ、あげますよ」っていうネットワークじゃなくて、勝手に漏れ出させているものがある。それが毒なのか栄養なのか本人もよくわからないまま、水とかCO2とか養分とかが漏れ出ている。木漏れ日もそうですけれど、自分が作った養分も「実」という形で一旦蓄えたように見えるけど、それが落ちて他の生物の養分になったり、ひたすら漏れ出させている。そういう考え方を人間社会でもできたら面白いんじゃないかということを最近考えていて。「与える」の場合、宛先を指定して「このお金を寄付します」のようになるけれど、ちょっと別の発想で「漏れさせる」、相手を指定せず自分から外に出して、それを必要な人が取っていく、そういう仕組みができないかと思っているんです。何を漏れ出させるかは色々あると思うんですけれど。お金もそうですし、例えば情報とかも。今は個人情報の管理が厳しくて、ひたすら漏れさせないことが多い。もちろん個人情報の保護は大事ですが、それをどんどんやってしまうと、その人の暮らしとか、どういう家族構成なのか、どういう問題を抱えてるのかということが外に漏れ出てこなくなって、その人が大変になった時に、周りの人が気づいて手を差し伸べるきっかけがない。だから、おそらく利他が発動するためには、その手前でお互いの暮らしを漏れ出させるところに社会が生まれるんじゃないかなと思っているんですけれど。どんどん区切って細分化してという力の方が強いので、どうやってそれに穴を開けてどうやって漏れさせるか、みたいなことの事例を集めたりすることに関心があります。
小林今、伊藤さんが言ったような「漏れ出す」みたいなことは、今までap bankの活動をやってきていてもありますね。こういうつもりでやったわけじゃなかったけど、結果としてこんなところに芽が出たんだとか。音楽の役割も本当にそうなんだと思います。この音楽を通じて大切なものに出会えた、特別なものに出会えたみたいなことが起こり得る。それは作り手が狙って作るものではないんだけど、みんなで様子を伺いながら出していくものが漏れ出していって、みんなそれぞれに受けとって何かが伝わっていく。そういうことを目指しているんだなとも、お話伺いながら思いました。
伊藤そうですね、思い通りのことしか起こらないことってつまらないと思うんですよね。最初からわかっているのになんでどんどんそっちに行くのかっていうのがすごく不思議で。一方でもっと若い世代、大学生とかが、もっと思い通りにしたいっていう気持ちが強いのもわからないでもないんですが。やっぱり失敗するっていうことの価値が低いのかなとも思うんですよね。大学生とか「人生終わった」ってすぐ言うんですけど(笑)。失敗を仕組みの中に入れたような、つまり失敗したらこうすればいい、むしろ失敗が財産なんだという社会の仕組みになっていたら、もっとその思いがけないことに手を伸ばせるんだと思うんですよね。
小林たしかに、最近本当にそうですね。良いことがあっても「これで自分の運の半分以上使い果たした」とかね。自分の持ってる「パイ」みたいなものの限界を感じているんですかね。
伊藤情報が多いせいかもしれないですが、いろんなことを因果関係で捉えすぎてる気がして。問題解決と言うと原因を取り除くことだって思ってる学生がすごく多いんですね。でも、私が病気を患っている方にお話を聞いていると、回復のプロセスっていうのは原因を取り除くこととあんまり関係ない場合もあるんですよね。病院でお医者さんがすることは、もちろん原因を取り除くことなんですけど、取り除けば終わりということじゃなくて。取り除いたことで身体は変わるので、その変わった身体で、新しい自分にとっての良い状態を探さないといけないわけです。自分の新しい生活の仕方はこれだって納得できたら、それが「回復」だと思うんですけれど、そこにはかなり偶然の要素がいっぱい入ってきて。自分ってこういう人だと思ってたけど、そうじゃない自分もあったんだとか。こんなふうに生きてもいいんだみたいな、発明のようなプロセスが回復だと思うんですよね。だから原因を取り除けば終わりっていう発想とは全然違うことが、いろいろな課題解決には必要だと思うんですけれど。
小林そうですね。確かに原因が何だったのかということに思考を巡らせることは僕もありますが、それを見つけて終わりってことではなくて、原因がわかることで新しい発見があるというような。原因になり得るものや要素をよく見るのは大事だとは思いますけれど、単に引き算、足し算みたいなものだけではないんだろうなって思いますね。
伊藤そうですね。原因をすぐ悪者にするっていうか、それを取り除くみたいな発想になるのが、ちょっと嫌だなと思う時があります。
小林伊藤さんは、人との繋がりというか、仲間を作られる時などに大事にされてることってあるんですか?
伊藤今年の3月に、以前、参加していただいた「利他学会議」をやったんですけど、そのサブタイトルが「一員であること」。一員性っていうのを、バンド感みたいなものを実はテーマにしてたんです。その言葉をくれたのは八丈島の人で。「利他をテーマにしたことをしたいので協力してください」とセンターに連絡いただいて。八丈島は近世以降、流人を受け入れてきた島なんです。
小林そう聞きますね。
伊藤その流人たちを、みんな一員として受け入れてきたという歴史があって。特にある時期まではやってくる流人が政治犯中心だったということもあって、流人が新しい文化や技術をもたらす存在のようにも見られていて、うまくみんなでコミュニティを作っていくんですね。地元の人に聞いても、現在でも移住者に対してオープンな気質があるそうです。そういう八丈という場所が持ってる利他の形って、一員性みたいな言葉で表現されるもので。島の人が、「結局利他って一員であるということだよね」っていう風にさらっとおっしゃったので、あ、すごい本質ついてると思ってびっくりしました。その中には、自然も含まれていて。島だから常に天気の変化にさらされてるし、飛行機が飛ぶ飛ばないとか、船が着岸できるできないとか、生活が自然環境にものすごく振り回される。でもそれに沿って生きていくってことが当たり前でもあって。そういう八丈の持ってる利他の形としての一員みたいなことにはすごく関心があります。
小林コミュニティの大切さっていうのはありますよね。何かの仲間の一員であるということはありがたいことかもしれない。ap bank fesに参加してくれるお客さんもアーティストも、なんか「一員感」みたいな気持ちを持ってくれているのかもしれないとも思います。ap bankが出来てからもう20年経っているんだけど、そういった連なり方みたいなことに、みんなでなっていけるきっかけみたいなものになりたいなとは思っているんですよね。
伊藤20年となると、かなり歴史みたいなものが積み重なってきて、その一員であるということと、歴史みたいなものって、すごく繋がってるんじゃないかなと思うんですよね。 コミュニティっていう話で思い出したんですけれど、中越地震の時に壊滅的な被害を受けた新潟の山古志村、今は長岡市になってますが、人口も減少し高齢化したこの旧山古志村で、ここは世界的に錦鯉が有名なところなんですが、その錦鯉をモチーフにしたデジタルアート「Nishikigoi NFT」を発行して、デジタル村民を増やすというプロジェクトがあります。NFTを買うとそれが電子住民票を兼ねていて、山古志村に住んでいなくてもデジタル村民になることができるんです。彼らのコミュニティを見ると中国語とか英語とか、色々な言語でやりとりがなされていて、「世界中にデジタル山古志村民がいる」ということになる。しかもそこでは、NFT販売の利益をリアル山古志村のためにどうやって使うかということも議論されていて、まさに予算の使い方を決める村議会という感じなんです。なぜ山古志村でそれができたのか、現地で話をうかがったのですが、中越地震の時に全村避難となり、「もうこの村は終わりだ」ってみんな一回諦めているんですね。でも帰れるっていうことになって、その帰った時に外部の人が入ってくれたことで助かったという記憶をみんなが持っていて。だからこそ背水の陣の時こそオープンにしようという風土があって。それでNFTの話があった時に、うまくいくかわからないけどとりあえずやってみようということが認められて。そういう歴史が作る風土と、そこの一員であること、というのがすごくリンクしていると思いました。20年というスパンで、どんなふうに積み重なっていくのかってすごく気になります。
小林継続することは必要ですね。最近、思考停止のムードみたいな感じもあるけれど、完全な思考停止をしてるわけではないと思うし、そういった中でも、ちょっとした気づきや小さな行動が出来るようなことにつながっていくといいなと思ってるんです。
美学者。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。MIT客員研究員(2019)。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)。第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞、第42回サントリー学芸賞、第19回日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞受賞。